June 02, 2009
今日は、小・中・高・特別支援学校の教頭先生方を対象に、「特別支援教育推進の留意点」について講演を行った。ICFに基づく障がいのとらえ方をベースに、児童生徒理解を深めることを中心に話をした。また、特別支援教育の理念と校長の責務について説明し、その理念を学校経営に生かしていただきたいことなども話した。
特別支援教育の対象は障がいの有無にかかわらず、不登校、いじめ、虐待、低学力力、非行など、学校や家庭、地域で困っている児童生徒を含んでおり、生徒指導や進路指導、教育相談や教科指導と一体となって取り組む教育であることを強調した。
ほとんどの教頭先生方が熱心に聞いていたと思うが、中には傍観的に関係がないという認識で聞いておられた方もいたと思われる。今後、管理職への啓発を粘り強く進め、教員一人一人の意識改革につながればよいと考えている。
ある本に、「アフリカのある部族が、雨乞いの踊りを踊ると、かならず雨が降るそうです。なぜでしょう。」というクイズが出ていた。答えは、「雨が降るまで、踊り続けるから」という。
本当になるまで言い続けるという方法がある。言い続けていると、それを信じる人が増えてきて、だれもが、その方向にうごきはじめるから、やがて本当になってしまうことがあると、解説があった。
私はそれを実践している。今は、「こんなに忙しいのに、特別支援教育なんかできないよ。それより、人を配置して」と考えている人がいたとしても、私は言い続ける。特別支援教育の理念や方法を活用することで、子どもが救われ、結果的に先生自身が楽になるんだということを実感する学校が増えるまで。それが、私の使命と捉えている。
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May 13, 2009
今日は、午後から年休を取って、広島市の特別支援教育コーディネーター研修会に参加した。広島市教育委員会特別支援教育課長のご配慮で、後野文雄氏の講演を聴くことができたことに、心から感謝したい。
ご講演前に、名刺交換をさせていただき、直接お話を聞くことが出来たことはとても幸せだった。
まず、言われたのは学校経営の底辺に、特別支援教育の理念を置いたこと。学校には発達障害の子どもだけではなく、支えないといけない子どもは他にたくさんいる。したがって、全ての子どもが学びやすい学校を作りたかった。赴任したときは、学校は荒れていて、低学力、いじめ、不登校、非行など、課題が山積していた。校長は7年かけて立て直した。その熱意と企画力、統率力、実行力は、凄いというしかない。
詳細は省くが、来年度、福岡市に招聘して、多くの管理職や教職員に聴いていただきたいと心から思った。学校は、校長で変わる。教職員が力を合わせ、チーム力を高めること。特別支援教育を特別な教育とせずに、特別支援教育コーディネーターを生徒指導担当と進路指導担当にして、学校・子ども・家庭で一体となって取り組んだ学校経営こそが、ユニバーサルデザインであり、白糸ブランドの真骨頂だと確信した。
講演を聴いて、私自身元気をいただいたことに、後野先生にお礼を言いたい。
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March 29, 2009
反省とは、自分が想ったこと、話したこと、振る舞ったことを振り返り、第三者の立場に立って、客観的に視つめ直すことである。そこには、正しい物差しがなければ、単なる自己弁護となり、言い訳をつくり、心の浄化や修正が行われない。
地位の高い人たちは、正しい物差しより、自己保存のための物差しとなり、反省とはなりにくいのが特徴である。内面で「自分は偉いのだから、自分の言うことを聞かない者が悪い」と主張しやすい。
地位が高くない人たちは、自分たちの不平不満をためやすく、「自分だけが苦労していて、報われない」と考えがちで、他者に責任転嫁することが多い。
人間性は、地位の高さではないことは言うまでもない。それぞれの立場で、他者のために、最善を尽くす人や謙虚さを維持し、優しさを与えることのできる人が、人間としての価値が高い人である。
私の職場で、掃除をしていただいている方たちがいる。仕事の範囲ではないが、花の種や苗を自分の小遣いで買い、たくさんの花を咲かせている。「いつも、ありがとうございます」と言うが、「花が好きだから」と返ってくる。
「花を咲かせているのは私です。」とは主張されることはない。ここに、人間性の価値がある。
評価されようと自分の心を偽る人、評価されないと人を憎み妬む人は、可哀想な人たちである。そのような人たちは、「反省」をせずに、他者への「反省」を求める哀れな人と言える。
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March 22, 2009
たまたま本屋で見つけた『利休にたずねよ』を買ってみた。
ほとんど小説は読まないが、これが実に面白い。利休が追究した美学の謎をひもとかれていく。秀吉との対話は緊張感を持たせながら、淡々とエピソードが語られる。
あくまでも小説なので、事実と異なる部分は多いだろうが、新たな利休像に迫る面白さがあったと思う。
緑釉の香合に秘められた謎。
利休切腹後、妻(宗恩)の「なぜ、夫は腹を切らねばならなかったのか」と呟き、はっきりと分かっていることがたったひとつあるのは「くちおしさ」と心の中で思う。宗恩は、廊下に出ると、路地の緑にちかいところに手水鉢と夫好みの石戸灯篭がある。宗恩は、手を高く上げ、にぎっていた緑釉の香合を勢い良く投げつけた・・・。それは、秀吉への怒りではなく、利休への嫉妬であるように、私には思われた。
なぜ、利休は腹を切ったのか。彼は、生涯守りぬいた秘密があったのだ。その秘密こそが、「独自の美の追求に深さと艶を与えた」と作者は言っているように思われる。利休の死は、19歳のときの運命の出会いによって決定づけられたが、更に豊かな人生となったように思われる。
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March 01, 2009
「人、この門を過ぎて悲しみの町に入り、苦しみの町に入る。この門を過ぎる者、ことごとくその望みを捨てよ」
これは、ダンテの『神曲』にうたわれた地獄の門の一句である。
この映画を観て、この一句を思い浮かべた。とてつもなく哀しく、そして美しい映画である。主人公の悲しみを抑えた演技は、切々と観る者に奥底に潜む哀しみを感じとる。
贈り物より、償いという印象だが、「善人」を選んで、贈り物を与えていく。人がいないときでも、いい人を選んでいくのだ。人前では善人を装い、本当にそうではない人は選ばれない。
自分は善人と思いこんでいるが、本当にそうなのか自問し反省する人は少ない。反省には、一人の時間をつくり瞑想することが必要だからだ。忙しいことを理由にその瞑想ができず、不平不満が募り、その原因を自分以外に向けられ、攻撃するようになる。弱い者の味方のように振る舞う自己中心的な善人はたちが悪い。
私たちは、善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、地位を得た人もそうでない人も、平等にいずれ死んでいく。死んだら、お金も地位も持ってはいけない。持って行けるのは、嘘をつけないその人の意思や想念であり、裁かれるのは、生きた時間の中での、様々な行為である。
哀しい人生だったかも知れない主人公は、自ら死を選ぶ。その行為は許されることではないかも知れないが、その行為には、人を助ける目的があった。神はそのことを知っており、彼は哀しみを人生に終止符を打ち、哀しみや苦しみから解放されるのである。
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February 22, 2009
いろんな場所で教育行政や教育実践の話をする機会をいただいているが、最後の方で、質疑応答の時間を設けて、双方のコミュニケーションを図っている。質問の中には、非常に優れた内容があり、実践の糧になる場合がある。しかし、残念であるが、その逆の場合もある。
その類は、自分の実践を省みる視点がなく、単に、行政への不平不満になっており、「自分たちは、こんなに苦労している」と言わんばかりである。特に多いのは人的条件の整備であるが、分かってほしいのは、予算の裏付けがあって、人的条件が進む事実である。「人的条件」の整備が必要ならば、その必要性を確かな資料を根拠に要求するべきだし、その前に自分がどれだけ実践を工夫しているか省みるべきである。
教員は公務員として恵まれた条件の中で働いており、民間の施設職員等の厳しい条件の中で頑張っている現実を知ってほしい。何よりも、教育実践を高めるための研修の場で、不平不満を述べ、意識の高まりに水を差すような教員は、子どもや保護者への慈愛に満ちた教育実践は困難であろうと思う。
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February 07, 2009
この映画の主題は何なのか。
原作を読んでいないので、よく分からないのだけれど、二人が人生を共に歩むことの難しさをリアルに描いており、「アメリカンビューティー」の妙な明るさはない。
現実的な男と新たな世界を求める女の葛藤を描いているが、通常は現実的なのは「女」の方が多いように思うので、多少の違和感はあった。この場合、性の違いにはとらわれず、何かを求める魂の葛藤と捉える方が理解しやすい。
飽きることはなかったが、面白い映画ではなく、明らかにヒットしない映画を作ったのは、監督のこだわりとも言える。どんなに有名な俳優を揃えても、おそらく多くの人は観ることはないだろうと思った。
女性は、明らかにうつ傾向にあり、若い年齢で中年の危機に陥っていると感じた。最後は死を覚悟したのか不明だが、魂は明らかに死を選んでいたように思う。
精神に病んでいる人物の存在は面白かった。その人だけが、女性の見方だったことは注目すべきことだが、誰が正しいのか、本当のところ、誰も分からない。
かつて、ウイルヘルム・ライヒが言ったことを思い出した。「精神を病む人は、狂った社会に適応できない正常な人である」と・・・。
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February 04, 2009
群馬県桐生市は、自然の豊かな所でした。両毛線に国定駅があり、あの有名な国定忠治の縁の郷らしいことを聞きました。赤城山はかなり高い山だったような気がします。
さて、講演は120名程度の参加者があり、約1時間40分、話をしました。関東で話をするのは初めてで、反応が気になりましたが、発達障害の子どもたちは世界共通なので、頷いて聞いている人も多かったようです。年度末の忙しい時期もあって、先生方は少しお疲れ気味に感じました。私も強行スケジュールで、息つく暇もなく帰りの電車に乗りました。地元の人との交流ができればよかったのですが、時間がとれないのは仕方のないことです。
質問などがあれば、ブログをとおして聞いてくださいと言いましたので、何かございましたら、気軽にご連絡ください。
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January 17, 2009
以前にも書いたと思うが、小中学校に設置している特別支援学級は教育の原点である。田村一二氏、近藤益雄、野杉春男の偉大な先人たちは、いずれも特別支援学級で、優れた教育実践をしてこられた。特別支援学級は、校内でも孤立しやすく、条件整備は不十分な状況で、孤軍奮闘せざるを得ない。だからこそ、担任となった教員は鍛えられるとも言える。残念ながら、特別支援学級を担任したいという特別支援学校の教諭は少ない。その理由は前述したように、精神的に「きつく、つらい」仕事であるからだ。周囲の理解が得られにくいために、孤独の中で仕事が強いられる。子どもと接しているときだけが、本当に幸せな時間だった。
私は、できるだけ若いうちに特別支援学級を経験していただきたいと願っている。特別支援学級の経験があれば、「マイノリティ」の意味が実感できる。本当に特別支援教育を理解している人を見抜けるようになる。今後、特別支援教育がどのように変化していくのか分からないが、おそらく「特別支援学級」が大きくクローズアップされることは間違いない。
私の残された時間はあと10年。特別支援教育を推進するための人材を育て、支えていくことが使命であると考えている。
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December 16, 2008
世の中には嫌なことがたくさんある。多くは人間関係で悩み、嫌な(苦手)な人の存在が原因となっている。嫌な人はどこにもおり、他人から見たら、自分が嫌な人になっていることもある。大切なことは、嫌な人を避けようとせず、腹を据えて付き合うことである。そこに学びのチャンスがある。対象は「人」に限らず、様々な事案やトラブルも同じ事が言えそうである。
学びの機会は、一見逆境や不幸の場面が多いと思われる。逃げると、見事に姿を変えて追いかけてくるのが常である。解決すべき事を解決しようとしないで避けているから、追いかけてくるのである。もし、神様がいるとしたら、その学びの機会を与えてくれているのかも知れない・・と感じることがある。
とにかく、腹を据えて、覚悟し、真正面から取り組むことである。それで、失敗することもあるし、解決に向かわないこともあるが、結果的に真正面から取り組むことで得ることが多いのである。
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